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13

Apr

2009

  中国語は発音が難しいとされる。本当に難しいかどうかはともかくとして、発音については気が抜けない、少しの油断もならない言語だとはいえる。   日本語でも「トロ」と「どろ」は大違い。「からす」と「ガラス」も大違いだ。このように日本語には清音と濁音の対立があるが、これに当たるのが中国語では有気音と無気音の違いということになる。   この違いによって区別される語がごまんとある。“兔子”tu4ziは「ウサギ」だが、“肚子”du4ziは「お腹」である。”跑了”pao3leは「走った」だが、”饱了”bao3leは「お腹が一杯になった」である。あわせると、次のような文になり、発音練習などでよく使われる。   兔子跑了(ウサギが逃げた)   肚子饱了(お腹がいっぱいになった)   子音がtかdかの違いだったり、pかbかの違いだ。これが日本人には微妙な差異で、清音と濁音ほど発音しやすくはない。ローマ字ではdやbで表されるが決して濁音ではない。   音節の最後がnかngかの違いもやっかいだ。“人参”ren2shen1と最後がnなら「朝鮮人参」だが、“人生”ren2sheng1と最後がngなら「人生」になる。   北京の天壇にゆきたいなら“天坛”tian1tan2と言わねばならぬが、つい“天堂”tian1tang2と-ngのほうで言ってしまう。運転手さんには“天堂”すなわち「天国」に聞こえる。お客と一緒に天国行きなんて、まっぴらごめんと思うことだろう。   さらにご存知の声調がある。xie1“歇”といえば「休む」、のぼり調子のxie2“鞋”なら「靴」だし、xie3“写”と低く言えば「書く」、xie4“谢”なら「感謝する」となる。   レストランでスープを頼もうとしてtang1“汤”という。勢いあまって元気がよすぎて声調をまちがえると、tang1ではなくて、tang2“糖”に聞こえる。砂糖がどんぶり山盛りで出てくることになる。   このようにちょっとの違いがとんでもない違いになるので、発音には気を抜けないわけだ。   声調にからんだ小咄も多い。餃子は、中国では日本のような焼き餃子でなく水餃子のほうが一般的で、“水饺”というが、この値段を聞く。 一碗水饺多少钱?(どんぶり一杯の水餃子はいくらかね?)   “水饺”の発音はshui3jiao3だが、まちがえてshui4jiao4と言ってしまう。すると、   一晩睡觉多少钱?   となる。店員さんから横っ面を張られることを覚悟しなければならない。

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14

Jan

2009

约会

分類: その他

  

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08

Jan

2009

  

黑黑和灰灰,两人去推水。

黑黑推水,灰灰帮黑黑。

灰灰推水,黑黑帮灰灰。

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07

Jan

2009

语音

分類: その他

  

  

 

現代漢語“普通”(中国語の共通語)には400余りの基本音節がある。中国語の音節の大多数は“声母” “韻母” “声調”の組合せからなる。音節の頭の子音が“声母”、その後ろの部分が“韻母”、声の上げ下げが“声調”である。例えば、māはmが声母、ɑが韻母、“―”が声調を表わしている。

              

 

一、韻母(母音)

  韻母は35ある。

韻母表:

 

     i

     u

     ü

     ɑ

     iɑ

     uɑ

  

     o

 

     uo

 

     e

     ie

 

     üe

     ɑi

 

     uɑi

 

     ei

 

     uei

 

     ɑo

     iɑo

 

 

     ou

     iou

 

 

     ɑn

     iɑn

     uɑn

     üɑn

     en

     in

     uen

     ün

     ɑnɡ

     iɑnɡ

     uɑnɡ

 

     enɡ

     inɡ

     uenɡ

 

     onɡ

     ionɡ

 

 

 

1.単母音:

                  ɑ   o   e   i   u   ü 

 

単母音は6つある。そのうち、eは4つ、i3つの異なった母音を表わす。

 

ɑ 

 

“ɑ”を発音するときは、日本語のを発音するときよりも口を少し大きく開け、舌は少し前に来るようにする。

 

              o  

obpmf4子音の後に続くときだけ単独で現われ、それ以外は常にその他の母音と結合してuoouなど複母音を形成する。

 

               e

e4つの異なった母音を表わす。

(1)単独で韻母となり、他の母音と結合しない。例:歌(ɡē)、和()。

(2)単独で韻母とならず、iの前に置かれてeiとなる。例:黑(hēi)、每(měi)。

(3)一般には単独で用いられることはなく、常にiüの後ろに置かれてieüeとなる。(jié)、略(lüè)、雪(xuě)単独で用いるのは感嘆詞“欸”のみで、この拼音はêと書く。

(4)erは巻舌母音で、拼音表記には2つのアルファベットで表わされてはいるが、実際は1母音である。常用されている文字は“儿、而、耳、尔、二”のみである。

 

               i

i3つの異なった母音を表わす:

 (1)子音zcs及びzhch

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29

Dec

2008

  

 愛されることは幸福ではない。愛することこそ幸福だ。 (ヘルマン?ヘッセ )

  被爱不一定是幸福,去爱才真的幸福。

  愛することにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠に素人である。 (三島由紀夫)

  對於愛,女人往往是專家,而男人永遠是外行。

  安定は恋を殺し、不安は恋をかきたてる。 (マルセル?ブルースト)

  戀愛在安定中滅亡,在不安中昇華。

  男がどんな理屈を並べても、女の涙一滴にはかなわない。 (ボルテール)

  不管男人有如何道理,也敌不过女人的一滴眼泪。

  男にとって愛は生活の一部だが、女にとって愛はその全部である。 (バイロン)

  对男人来说恋爱只不过是生活的一部分,对于女人来说爱就是生活的全部。

  男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる。 (ワイアット)

  男人是用眼睛去爱的,但女人却由甜言蜜语而恋爱了。

  恋の喜びは一瞬しか続かない。恋の悲しみは一生続く。 (フロリアン)

  恋爱的喜悦只能持续一瞬间,悲哀却是一生相随。

  恋人どうしのけんかは、恋の更新である。 (テレンティウス)

  对恋人们来说,吵嘴是爱的革新。

  恋をして恋を失った方が、一度も恋をしなかったよりマシである。 (テニソン)

  勇敢的去爱,即使失败也总比一次也没爱过好强。

  心がわりせぬことは、恋愛の妄想である。 (ヴォーヴォナグル)

  永不变心,不过是恋爱的美好愿望而已。

  全ての場合を通じて、恋愛は忍耐である。 (萩原朔太郎)

  總的來說,所有的戀愛就是忍耐。

  その女を手に入れる事ができない期間だけ、男はその女に熱狂させられる。 (キルケゴール)

  只有在还没追到的时候,男人才对女人狂。

  尊敬ということがなければ、真の恋愛は成立しない。(フィヒテ)

  没有尊重对方的心,就没有真正的爱情。

  男性は女性の最初の恋人になりたがるが、女性は男性の最後の恋人になりたがる。 (オスカー?ワイルド)

  男人總想是女人的初戀,而女人總想成為男人的最後一個愛人。

  ひどく憎んでいる限り、まだいいくらか愛しているのである。 (デズウリエール夫人)

  深深地恨著那個人,因為你還愛那個王八蛋

  ほどほどに愛しなさい。長続きする恋はそういう恋だよ。 (シェークスピア)

  请恰如其分的去爱,那样恋爱才能长久吧!

  もっとも永く続く愛は、報われぬ愛である。 (モーム)

  最長久的愛是不求回報的愛

 

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29

Dec

2008

  

愛は四年で終わる──若いカップルほど別れやすい理由と、ニーチェが語る本当の愛恋を科学的に分析してきましたが、これまでの話をまとめておきます。 愛が芽生えると、脳の中の覚醒剤PEAの働きで、性交して子供を生むのに十分な期間、恋人どうし引かれあいます。その情熱が冷めたころには、脳内麻薬エンドルフィンによって夫は妻に強く愛着し、家庭にとどまって妻子を守ります


 結婚生活は二人に人生最大の幸せ(ほんわか気分)をもたらすでしょう。この「ほんわか気分」と密接な関係のある物質が、「幸福ホルモン」セロトニンです。脳内のセロトニンが多いと、癒され落ち着いた気分になりますが、減少すると憂うつになり、自殺しやすくなります。


 セロトニンを増やすSSRI(セロトニン再取り込み阻害剤)は、うつ病の治療に使われています。飲むと幸福感と安心感が増すので、通称ハッピードラッグ(幸福剤)とも呼ばれます。中でも「プロザック」という製品は1988年にアメリカで発売されて以来、爆発的な人気を呼びました。使用者は世界中で二千万ともいわれ、最も有名な日用品に数えられています。うつ病でないのに、ビジネスマンが「明るくなりたい」「積極的になりたい」という理由で使ったり、元気のない猫に飲ませる人まで現れました。


 薬のことはともかく、結婚すれば「ほんわか気分」に包まれることは、ほぼ確実でしょう。恋人たちの脳で何が起きているか知ると、私の体が実にうまくできていることに、感心させられます。
 しかし、感心している場合ではありません。


 今までは結婚が人生の唯一にして最大の幸せであるという、明るい面を紹介してきましたが、その影には私たちが目を背けたくなる冷厳な事実が潜んでいます。


 これから結婚の幸福と毒を論じますが、今回はまず、「恋をして結婚すれば自動的に幸せになれるなら、みんな幸せになっているはずじゃないか」という、当然すぎる疑問に答えておきます。
 たしかにほとんどの人は、結婚すれば平均して四年間は幸せです。しかし逆にいえば、その至福は四年の命です。多くの社会で、結婚して二年たつと離婚する人が増え始め、四年目にピークを迎えます。四年目の浮気を乗り越えると、離婚率は減ります。
 なぜ愛は四年で終わるのか。


 四年たったらパートナーを変えた方が、子孫を多く残すのに有利だったからでしょう。モンテーニュは「本人がどう言おうと、われわれは自分のために結婚するのではない。むしろ子孫のために結婚するのだ」と言っていますが、結婚だけではありません。結婚も離婚も浮気もすべて、優れた子孫を多く残すためなのです。


 アメリカで最も著名な人類学者の一人、ヘレン**フィッシャーの学説を紹介します。私たちの祖先は、どのような婚姻生活を送っていたのでしょうか。今日の伝統的な社会を調査すると、子供が乳離れするのに必要な期間は、ほぼ四年です。この数字が離婚のピークと一致するのは、偶然ではないでしょう。


 今日のように核家族化が進んでおらず、複数の家族が集団で生活していた原始時代には、乳離れした子の世話は周囲にまかせ、配偶者を変えて新しい関係を結ぶことができたと考えられます。両親が異なれば子供の体質も変わりますから、伝染病が流行しても全滅は防げるかもしれません。


 環境がころころ変わる厳しい自然界では、似たような子ばかり産むのは危険です。日本では平成五年の冷夏で記録的な米不足が生じ、「平成の米騒動」といわれましたが、人気のある品種ばかり作っていると、環境が激変したときに、ことごとく不作になります。「新型インフルエンザ」など未知のウイルスが人類を脅かしていますが、新しい伝染病に対抗して子孫を残すには、可能な限り多様な子供を残すべきでしょう。


 子孫を増やすことだけ考えれば、子が離乳したらパートナーを変えるのが最適です。この賢い戦略を、私たちの祖先は進化の過程で身につけたのではないでしょうか
(注1) そうでなければ、現代でも若い夫婦ほど離婚率が高いことが説明できません。これは普通に考えられるのとは、正反対の現象です。結婚して二十年、三十年過ぎれば飽きるでしょうし、子供も社会に出るのですから、その後で熟年離婚するなら納得できます。


 しかし実際には、男女ともに離婚にふみきる数が多いのは、二十代の生殖能力が盛んな時です。「まだやり直せる」可能性が高いほど、別の人と再婚する可能性が高まるのです。特に女性の側が経済的に豊かで、夫に頼らず生活できると、よけい離婚率が高まります。
 逆に子供が多くなるほど、また夫婦の年齢が上がるほど、新しい生活を築いて子を産む負担が大きくなるので、離婚の動機も弱まるのです。若いうちに経済力のある女性と結ばれるのは、統計学的には最もリスクの高い結婚です。
 

結婚の幸せも四年とは……。


 しかし、四年後に離婚するカップルが多いのは事実ですが、大多数の夫婦はその危機を脱して結婚生活を続けています。愛は続かないという当前の学説より、こちらのほうが注目すべき現実です。愛が終わる人、終わらない人、どこが違うのでしょうか。
 愛のときめきが四年で消えたとき、「こんなはずではなかった。私の求めていた結婚は、もっと別にあるはずだ」と、新たな出会いを望む人は、四年後に同じ悲運に見舞われるでしょう。私たちの脳には、結婚すれば幸せになるシステムと、その喜びを終わらせるシステムと両方あるからです。


 自分の脳に振り回されないためには、星の王子様と運命の結婚をすれば幸せになれるという幻想を捨て、もっと賢い愛し方を模索しなければなりません。それは困難な道ですが、多くの人が一時の情熱が冷めた後で、本当の愛を見いだしています。本当の愛とは……
 ニーチェに答えてもらいましょう。


「誰がこの愛を知っているであろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情である」
(注2)
 安定した結婚には、趣味や興味の一致が欠かせない要素だとよく言われます。友だちとして末永くつきあえる人を探しましょう……孤高の哲学者ニーチェからのアドバイスでした。
【注1】


「現代の世界の離婚のピーク──結婚四年め──は、伝統的な人類の出産の間隔である四年とも一致するのである。つまり、わたしの理論はこうだ。繁殖期間だけつがうキツネやロビンその他多くの種と同じように、ひとの一対一の絆も、もともと不要を必要とする子供ひとりを育てる期間だけ、つまりつぎの子供をはらまないかぎり、最初の四年だけ続くように進化したのである」

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まず、言語構造についてだが、同じ漢字を使っているにもかかわらず、中語と日本語は明らかに言語構造の違った言語である。中語は英語などと同じく「SVO」(主語+述語+目的語)構造の言語で、日本語は「SOV」(主語+目的語+述語)構造の言語である。「我吃」という中語を日本にすと「私はご飯を食る」となる。中語にとっては主語は不可欠な成分であるが、日本語にとっては、必ずしもそうではないようだ。「こんにちは」、「お元ですか」、「よろしくお願いします」、「ただいま」、「おりなさい」、「いただきます」など、日本語によく使われるこれらの挨拶用語には、ほとんど主語という成分が使われていないが、中語に翻するとその違いがすぐ分かる。「好」、「身体好」、「(我)你请多多照」、「我回了」、「我(不客地)吃了」など、中語の場合は、いずれも主語を使わなければならないし、あるいは、主語を使ってもよさそうな表現になってしまう。そこで、日本語にとっては「主語無用論」や「主語止論」を鼓吹した日本人の者も出てくるのも何もおかしいことではなかろう。つまり、日本語の文法構造は、「文末決定論」というに言われるが如く、述語は文の中心であって、主語は日本語の文構造にとっては必ずしも不可欠な成分ではなさそうである。


次に、想とは何かというと、その問題をどう扱い、どう纏めるかということについての思いつきや、普段考えついたことを果的な述、構成などによって表現することを指している。言語表現における想とは表現主体の話の心理、言語意識、社心理(習慣と通念をも含む)などを指していう。中人と日本人の言語想や言語意識の違いについて考えてみると、中語の場合は、言葉の構造(孤立語なので主語が文中に現れないと文脈がはっきりしないことなど)ともなんらかの係があるはずであるが、中人は基本的には言語が意思疎通の道具立てである以上、それを使って自分の意思を相手にはっきりえるのは然のことではないか、と考えてきたし、実践してきた。だから、何かがあった時は、快 呀! 不 我 能知道 ?(早く言いなさい!言わないと、分かりっこないじゃないか )という言葉が決まり文句のように出てくる。いわば、アメリカ人ほどではないが、中人は結構自分の思ったことをはっきりと言ってしまうほうである。

一方、日本人の場合はどうであろうか。日本では昔から「言わぬが花」という諺に形容される如く、普通の言語生活には言葉をあまり使わないで意思達を成し遂げようとする傾向がく、「ことあげせぬ」で「語らぬ」ことをよしとし、自分の方から相手に「わからせ、通す」ことはあまりしなかった。そこで、生まれたのが「勘」で分かり合うとか、「察し」や「配り」などの非言語的信行動による達の重要視であろうかと思われる。それゆえに、昔から日本では「沈の英雄」がほめたたえられ、今でも物をずばりと言ったり、あまり勢いのいい口調でしゃべったりるのはぶっきら棒に聞こえやすいことから言外表現に意思疎通を委ねるのがしばしばでる。


これを明するためには一つ例をげよう。日本人の日常話には「どうも」という言葉がよく使われる。言い換えれば、この「どうも」という言葉ぐらい便利な日本語はないかもしれない。朝、誰かにったとき、「おはよう」の代わりに「どうも」である。
夕方別れるときにも「さようなら」の代わりにまた「どうも」。おをいう時も「先日はどうも」、結婚式へ行っても「どうも~」、葬式でも「どうも~」、どこへ行っても誰にっても「どうも、どうも」ですませている日本人が多いようである。言わば、この「どうも」はいつでもどこでも誰にしても使えそうな万能な言葉である。しかし、日本人にとっては誰でも分かるようなこの「どうも」という言葉を中語に翻する時案外うまくできない場合がよくある。たとえば、日本人は友人に出うとよく、「先日はどうも」と挨拶をするが、それをそのまま中語の「前几天在」と翻すると意味不明な言葉になってしまう。つまり、「先日はどうも」はそのあとに「すみません」とか「ありがとう」とか「失しました」とか「お世話になりました」とかの容が省略された表現ではないかと思うが、この場合中語で「前几天麻烦你了」「前几天谢谢你了」「前些日子多有打」「那一天不起了」などとはっきり言い分けないと分からないのである。また、中人は誰かをある行動に誘う時に、あるいは行動すべきだと急ぎたてる時は「我立刻」「我们马上走」などと明瞭な表現を喜ぶが、日本人は同じ場合でも制的に押付けがましく指示するのが失なことだと考え、「ぼつぼつ始めましょう」とか、「そろそろ出かけましょうか」などといったぼかし表現をする。

そういうことで、日本人はいままでかすかな表情や、控え目な身体の動き、目つきなどを言語行動と置き換えてお互いに意思達し合ってきたのである。こういった表現の形が成り立つのは「話さないでも分かる」というのが原則或いは前提となっているからである。そのため、日本人は積極的に自分の意を相手に言おうとせず、自分の意見なり、主張なりをはっきり述べようとしない。と同時に他人の事情をも問おうとしないし、そういう消極的で、できる限り主動文を避けて表現するのをよしとしてきたわけである。


次に行者意識のことであるが、中人は出事はある行者によるものとしてとらえるのが普通である。しかし、日本人の場合は、出事が誰によって起こったかということよりも出事そのものにしての心が先んずるので、同じ出事にする中人と日本人のとらえ方は相違っている。

それで、中人は、「他小就失去了父母(彼は幼いころから親を失った)」、「他我等了一(彼は私を一時間も待たせた)」、「在运动场举行了运动会(運動場で運動を行った)」など、「~が~をする」というような、いわゆる「他動詞」的表現を好むが、日本では「自ら~する」という考え方は不適に感ぜられることから、それよりは「~なる」とか「~される」とかいうのが良しとされるのである。したがって、日本人はなるべく能動表現を避けた表現形を好むが、受身的に間接的に自然にそう「なる」という具合に表現するのが丁重だというわけである。

上の中語例文の日本語は直であるが、同じ意味を表すには日本人はむしろ次のような表現をするだろう。「彼は幼いころから親に死なれた」。「彼に一時間も待たされた」。「運動場で運動が行われた」。このように、言語意識や社通念、言語習慣による想法の違いによって中人と日本人は同じ意味を表すのにかなり違った表現法を使うのである。要するに、中人は人間或いは動作主体が「~する」という「手」の立場に立っての表現を好み、日本人は非人的に、物事が自然に「そうなる」というような「受け手」か、第三者の立場に立っての表現を好むようである。

  引用

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 于 う
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 史 し
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 申 しん
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 江 こう
 向 こう
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 吳 ご
 阮 げん
 沙 さ
 車 しゃ
 邵 しょう
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 易 い
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 馬 ば
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 殷 いん
 耿 こう
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 陵 りょう
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 商 しょう
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 張 ちょう
 莫 ばく
 梁 りょう
 梅 ばい
 符 ふ
 區 おう
 陶 とう
 常 じょう
十二劃
 畢 ひつ
 連 れん
 遊 ゆう
 溫 おん
 曾 そう
 馮 ひょう
 舒 しょ
 傅 ふ
 賀 が
 華 か
 黃 こう
 湯 とう
 喬 きょう
 焦 しょう
 程 てい
 彭 ほう
 屠 と
 童 どう
 費 ひ
 項 こう
十三劃
 虞 ぐ
 葉 よう
 葛 かつ
 賈 こ
 萬 まん
 董 とう
 楊 よう
 路 ろ
 雷 らい
十四劃
 寧 ねい
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 榮 えい
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 蔡 さい
 衛 えい
 鄭 てい
 齊 せい
 鄧 とう
 潘 はん
 劉 りゅう
 黎 れい
 魯 ろ
 談 たん
 廖 りょう
 樊 はん
 蔣 しょう
 歐 おう
 樂 がく
十六劃
 蕭 しょう
 錢 せん
 盧 ろ
 謝 しゃ
 薛 せつ
 賴 らい
 霍 かく
十七劃或以上
 魏 ぎ
 鍾 しょう
 歸 き
 龍 りゅう
 戴 たい
 簡 かん
 韓 かん
 譚 たん
 藍 らん
 顧 こ
 羅 ら
 蘇 そ
 嚴 げん
 龔 きょう
 贏 えん
 顏 がん
複姓
 司馬 しば
 司徒 しと
 諸葛 しょかつ
 上官 じょうかん
 歐陽 おうよう
 夏候 かこう
 太史 たいし

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18

Sep

2008

麻字谣

分類: その他

  

   麻家爷爷挑着一对麻叉口,
  走到麻家婆婆的家门口。
  麻家婆婆的一对麻花狗,
  咬破了麻家爷爷的麻叉口。
  麻家婆婆拿来麻针、麻线,
  来补麻家爷爷的麻叉口。

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    天上有个日头,地下有块石头,

  

    嘴里有个舌头,手上有五个手指头。

 

 

  不管是天上的热日头,地下的硬石头,嘴里的软舌头,手上的手指头,

 

  还是热日头,硬石头,软舌头,手指头,反正都是练舌头。

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