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第二級 200-400ポイント 魏延
第三級 400-800ポイント 孫策
第四級 800-1200ポイント 姜維
第五級 1200-1800ポイント 黄忠
第六級 1800-3000ポイント 許褚
第八級 4600-6400ポイント 馬超
第九級 6400-8600ポイント 関羽
第十級 8600-11600ポイント 典韋
第十一級 11600-15400ポイント 趙雲
第十二級 15400-20000ポイント 呂布
太史慈 子義 たいしじ しぎ(第一級)
初期の呉において屈指の猛者。字は子義。東莱郡黄県の人である。若い時は学問を好み、郡の奏曹史を務めた。身の丈七尺七寸。腕が長く、弓を射れば百発百中の腕前。東莱郡と青州との間に争いが起こり、先に朝廷に上表した方が有利となるといった事態が起きた。このとき青州からの上章はすでに発送されており、郡の太守はそれに遅れてはと、当時21歳であった太史慈を使者にたてた。太史慈が急いで洛陽に着いて役所の門のところへ行くと、ちょうど青州側の使者が取り次ぎを願い出ているところだった。太史慈は青州の使者に向かって「上章の表書きに誤りはないか、持ってきてよく見直すがよい」と言った。
魏延 文長 ぎえん ぶんちょう(第二級)
字は文長。荊州義陽郡の人。身長八尺、棗のような顔と形容され、関羽と同じような容貌である。劉表の部下であったが、劉備が曹操に追われて、襄陽に来た時に受け入れないをみて門兵を斬り、劉備を入城させようとしたが文聘に阻まれて失敗。長沙の韓玄のもとに落ちのびるが優遇されない。関羽が長沙を攻め、黄忠を見逃すと韓玄は黄忠を疑って殺そうとする。このとき魏延は韓玄を斬り、その首を手土産に劉備に降伏する。しかし孔明は魏延に「反骨の相」(謀反を起こす後頭部の突起)を見たので斬首するよう劉備に進言する。劉備はこれを却下するが孔明は「もし謀反を起こそうとしたら必ず首を取る」と断言した。
孫策 伯符 そんさく はくふ(第三級)
孫堅の長男にして、呉の建国者。字は伯符。秀でた容姿をそなえ、談笑を好み、性格は闊達で他人の意見を良く聞き入れ、適材適所に人を用いたので士人も民衆も孫策に会ったことのある者はみな誠心誠意命を賭けて従ったという。孫堅が董卓討伐に行く際、孫堅は家族を非難させた。ここで少年だった孫策と周瑜は出会い、親友となり義兄弟の契り(周瑜は弟分)を交わした。ついでに言うと孫策の妻、大喬の妹である小喬は周瑜の妻であり、そういった意味でも彼らの絆は固いものがある。17歳の時に父に従って劉表の樊城を攻め、黄祖配下の武将陳生を射殺して初陣を飾る。しかしこの戦いで父・孫堅は戦死。孫策は捕虜にしていた黄祖と父の遺体を交換し、棺を守って曲阿に帰り葬った。江都を居と定める。
姜維 (きょう い、202年-264年)(第四級)
(きょう い、202年-264年)は、中国の三国時代の人物で、蜀漢の武将。字は伯約。父は姜冏。
三国志を読む人の間でもその評価が揺れていることで有名な人物である。諸葛亮亡き後の蜀の軍事面を支えたという功績を持つ一方、多年に渡り無謀な北伐を敢行し国力の衰退を招いたという見解もあり得る。 他に、彼が北伐を敢行したのは、もともと魏の降将であったので、蜀が魏に降れば(魏を離反した立場である)姜維は厳しい処罰を受ける事が容易に想像できるため、抗戦の姿勢をとらざるを得なかったという見方もある。
いずれにせよ、このような評価の揺れは正史『蜀書』成立当時からで、注をつけた裴松之は姜維に批判的な孫盛の評を引用しながらも、その非難を否定したりと、姜維への評価は定まっておらず、その流れが現在も続いていると言えよう。
ただし、日本においては判官贔屓の精神からか、三国志の登場人物の中でも非常に人気の高い人物の一人となっている。
黄忠 漢升 こうちゅう かんしょう(第五級)
蜀の五虎将のひとり。荊州南陽郡の人。弓の名手で、二人張りの強弓を引いて百発百中の腕前でその武勇は老いても衰えなかった。中国では黄忠のことを老いてますますさかんな人物の代名詞としている。薙刀を得物とし、常にまっ先に駆けて敵陣を陥とす、その勇敢さは三軍の筆頭であった。荊州の牧劉表に中郎将を任じられた黄忠は、劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守った。曹操が荊州を押さえると黄忠は仮に裨将軍を任命され、元の任務のまま長沙太守韓玄の配下となった。ここに攻めてきた劉備軍の関羽が韓玄の配下楊齢が討つと韓玄は黄忠を出陣させた。このとき黄忠は60歳に手が届こうかという年齢である。(正史には年齢の記述はない)
張飛 翼徳 ちょうひ よくとく(第七級)
字は翼徳(正史では益徳)。身長八尺(約184cm)、豹のような頭に大きな目玉、声は巨雷のごとく、その勢いは奔馬のごとし。肉付き豊かな頬から顎にかけて虎のような鬚で堂々とした風貌だったという。大酒飲みで乱暴な性格だが素直で義理堅く、長さ一丈八尺(約4m)の蛇矛を得物とした武力は一軍に劣らない。思慮に欠けるところがあったものの、敵に恐れられた名将。目上の者や知識人を敬うが目下の者に厳しいという面も持っていた。劉備と同郷で、田地を持ち酒や肉を商っていたが、当時中国を暴れ廻っていた黄巾賊を討伐する義勇軍募集に応じ、溜息をついている劉備に声をかけて居酒屋に行き、そこで偶然居合せた関羽と意気投合して、義兄弟の誓いをたてた。世に言う「桃園の誓い」である。
馬超 孟起 ばちょう もうき(第八級)
字は孟起。司隷校尉部扶風郡茂陵県の人。その容貌は、「顔の色冠の白玉の如く、眼は流れる星の如く、唇は紅をさしたようで虎の如き体躯猿の如き臂、腹は彪の如く腰は狼の如き」というもの。獅子の兜に獣面をあしらった帯を締めて銀の鎧に白の戦闘服という姿で人々は「錦馬超」と噂した。西涼の太守馬騰の長男で文武に優れ、呂布に劣らないといわれたその武力をもってあの曹操をもおびやかせた。17歳で父と董卓の残党を相手に獅子奮迅の大活躍。この戦いで李蒙、王方の軍と遭遇すると馬超は陣中から躍り出し、王方を数合せずして討ち取る。背後から迫ってきた李蒙に対しては、知らぬふりをしておいてから、槍を突いてきた瞬間、かわして馬がならんだ時に手をのばして手捕りにした。
関羽 雲長 かんう うんちょう(第九級)
中華街のシンボルともなっている英雄。字は雲長(もとの字を長生)。司隷河東郡解良県の人。身長九尺(約207cm)、鬚の長さ二尺、顔はナツメのように赤黒く、切れ長の目、紅をさしたような赤い唇、蚕がふせたような太い眉の堂々とした風貌だったという。義理堅く、誇り高く、重さ八十二斤(17.8Kg)の青龍偃月刀を得物とするその武力は一軍に劣らないという。春秋左氏伝を暗唱できるほどだったという知勇兼備の人物で、敵味方を問わずに愛された名将。目下の者には優しいが目上の者に厳しいという面も持っていた。[演義]では劉備の義兄弟となっているが、張飛ともども[正史]には記述はない。しかし、常に寝食を共にしていたという記述はあるので、兄弟のような間柄であったのは確かなことらしい。
典韋 てんい(第十級)
陳留の人。字を持たない平民の出身。80斤(約20kg)の双戟の使い手で「悪来」ともいわれた。若い時から立派な風貌を備え腕力は衆を抜き、義侠心の強い人物だったと言う。典韋の知り合いと李永と言う人物は仇敵の間柄であったが典韋は彼の為に報復をした。典韋は訪問者を装い、李永の家を訪ね、門が開くと匕首を片手にまっしぐらに李永に襲いかかり斬り殺して悠々と退出して行った。そして乗ってきた車から矛を取り市場の中を歩いていった。李永の家は市場の近所であったが、数百人が後を追っても誰も近づけなかった。しばらくすると追手が差し向けられたが典韋は戦いながら退き、ついに脱出する事に成功した。このことがあってから典韋の名前は豪傑たちの間で話題になったと言う。
趙雲 子龍 ちょううん しりゅう(第十一級)
冀州常山郡真定県の人。容貌は「身の丈八尺(約184cm)、眉太く目大きく、顔広く、頤重なり」というものであった。容貌秀麗の美丈夫であったと伝えられ、鎗を得物としていた。武勇でも関羽・張飛に勝るとも劣らないほどの豪傑であり、加えて冷静沈着な行動ができる理想の武将である。袁紹の配下であったが袁紹に忠臣救民の心がないのを見て放浪する。界橋の戦いの時、文醜と一騎打ちして敗走する公孫 を助ける。文醜と五、六十合もやりあったが公孫 の配下が救援にかけつけたので文醜は逃げてしまった。公孫 は州の住民がみな袁紹に従うのを深く憂えていたが、趙雲が自分の方についたのを喜び、「聞けば、あなたの州の住民はみな、袁紹につくことを願っているそうではないか。君だけどうして1人思い直し、迷いから冷めて正気に戻れたのかね」と言った。
呂布 奉先 りょふ ほうせん(第十二級)
「三国志」最強(狂?)の武将。字は奉先。五原郡九原県の出身。弓馬の術にすぐれ、また抜群の腕力を持っていたことから、飛将と呼ばれていた。これはその昔、匈奴から恐れられていた李広のあだ名・飛将軍からとられたものである。学はなかったが、その勇猛さによって并州の役人になった。河内に駐屯した并州刺史・丁原に寵愛され、主簿に任命された。親子の契りを交わしていたとも言われる。丁原は霊帝が死去した後、何進の誘いに応じ洛陽に入った。何進の死後、洛陽に入り実権を握ろうとした董卓は、丁原が自分に従わないことと、多くの兵を持っているのを見て、丁原を殺しその軍勢を手に入れようと考えた。












