陸遜

分類:三国志

陆逊

[lù xùn]

訳) 陸遜

部首:
画数:
5

【名詞】 陸遜

陸遜(183~245)
  字は伯言。もとの名は議。呉郡呉県の人。二十一歳のときに孫権の幕下に入り、のちに海昌屯田都尉となった。山越の潘臨や尤突の乱を鎮圧して、定威校尉に任ぜられた。兵を率いて丹陽の費桟を破り、精兵数万人を得た。建安二十四年(219)、蜀の関羽が魏将・曹仁の守る襄陽を攻めたとき、呉の陸口に鎮していた呂蒙が病と称して建業に退き、陸遜が代わって偏将軍右部督として陸口に鎮した。関羽の油断を誘って、ついに呂蒙とともに関羽を攻めて、公安・南郡を落とした。功績により華亭侯に封ぜられた。のちに右護軍・鎮西将軍となった。黄武元年(222)、蜀の劉備が呉に攻めてくると、大都督・仮節に任ぜられて、軍を率いて蜀軍に火攻し、大勝を博した(夷陵の戦い)。輔国将軍・領荊州牧を加えられ、江陵侯に封ぜられた。七年(228)、魏の揚州牧・曹休の軍を石亭で破った。黄龍元年(229)、上大将軍・右都護に上った。嘉禾五年(236)、孫権が合肥を囲んだとき、諸葛瑾とともに襄陽を攻めたが、孫権の本軍が退却したため孤立の危機に陥った。このときむしろ襄陽に攻めかけて威勢を示し、戦果をえて退却した。赤烏七年(244)、顧雍に代わって丞相となった。ときに魯王・孫覇が孫権の寵を受け、太子・孫和に不安が出てくると、陸遜は嫡庶の順を論じて上疏したが聞き入れられなかった。外甥の顧譚らが太子に親侍していたために流罪とされ、友人の吾粲は殺され、たびたび孫権からの問責の使者が来るにいたって、憤りのあまり死んだ。


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